Le Journal Blanc ~白のジャーナル~

あなたの明日をもっと輝かせる、素敵な気づきのお話。ふわっと、時に凛と。

#4 「相互見守り社会」で人生は好転する

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*「お帰り」「偉かったね」あたたかくねぎらう人

今日は、わが家の素敵な隣人の方についてお話したいと思います。

私たちがこの町に引っ越してきて以来、ご夫妻揃って、いつも何くれとなくお心に掛けてくださる優しい方々です。

 

初めて出会った時、ご主人はすでにリタイアしていらしたのですが、お仕事をされていないことが惜しく思われるほど若々しく、いつお会いしても眩しいような笑顔の方。

「3人の娘を嫁がせて時間が出来たのよ」と、奥様はいきいきとお稽古事に励んでいらっしゃいます。

 

ある日の午後。風に運ばれてきた落ち葉を掃除しようと、ほうきを手に私が玄関先へ出た時、街路から明るい声が聞こえてきました。

「やあ、お帰り。ランドセルを背負って、一生懸命坂をのぼってきたの? 偉かったねぇ。気をつけておうちに帰ってね」

お隣のご主人の声です。

ポストの郵便物を取りに出て来られて、通りかかった女の子に声をかけていらしたのでした。

 

見ると、小学校3~4年生くらいの女の子が少しはにかみながら会釈をし、まだ続く坂をのぼって行きます。

その顔が恥ずかしそうで、けれどそれ以上に嬉しそうに輝いていて。

「なんていい光景かしら」と、私は胸を打たれました。

 

なにげない午後。いつも通り学校から帰ってきた、ひとりの女の子。

見慣れた日常の光景───。

けれど隣家のご主人は、重いランドセルを背負い、緩く長い坂をのぼってきた女の子のがんばりにきちんと目を留めて、あたたかくねぎらわれたのです。

「当たり前」と見過ごされそうなことを褒められて、女の子はどれほど嬉しかったことでしょう。

 

「お帰り」とご主人がおっしゃったことで、女の子にとって「自分を待っていてくれる場所」は、彼女の暮らす家だけではなく、この町全体へと広がったのではないでしょうか。

「お帰り」という言葉が発せられた瞬間、この町はたしかに女の子のふるさとになることが出来た。そんな気がしたのです。

 

家族だけではなく、この町に暮らす人達が自分を見守ってくれている。

その実感は、女の子の心をどれほどあたため、励まし、支えとなってくれることでしょう。

偶然この瞬間に立ち会えたことを、私は心から嬉しく思い、これから長く続く女の子の人生を、陰ながら見守り続けるひとりでありたいと願ったのでした。

 

 

 

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*「相互監視社会」から、「相互見守り社会」へ

SNSが普及し、互いの日常をつぶさに知ることが常態となった現代。

FacebookTwitterInstagramといったSNSを介して公開される人々の暮らしぶり、言動は、往々にして批判や揶揄の対象となり、「相互監視社会」という冷たい言葉の重圧が、私達の頭上に重くのしかかっています。

 

若さ、未熟さゆえになされた常識を逸脱した言動は、注意も是正のための指導も、確かになされた方がよいはず。

けれど、批判や排除そのものが目的化したような不寛容な指弾は、誰にも実りを与えない、幸福にもしない。

そのように思われてならないのです。

 

震災、災害。ここ数年の間だけでも、私たちは何度大きな試練に見舞われたことでしょう。

そのたび誰もが口にし、心のよすがとした「つながり」「絆」という言葉のぬくもりは、まだ被災地の復興すら完全には成し遂げられていない今、もう忘れ去られてしまったのでしょうか。

 

町の人々を見守り、折に触れてねぎらい励ましてくださる隣家のご主人は、この町で厚い人望を集められ、リタイア後の人生をあたたかく過ごしていらっしゃいます。

 その姿を拝察するたび思うのです。

人と人は励ましあってこそ、あたためあってこそ、互いがどこまでも伸びていけるものではないだろうかと。

 

今、心深く願います。

「相互監視社会」から「相互見守り社会」へ。

この国の未来がどうかそのように、真の意味で誇り高く、あたたかなものでありますようにと───。

 

 

 

 *Web magazine`Project DRESS’で、コラム「人生が好転する気づきの美習慣」を連載させていただいています。